父は体格が貧弱だったため、兵役検査は丙種合格でした。
甲乙丙丁の丙です。
そのため出征することはありませんでした。
父は肩身が狭かったのかもしれませんが、お蔭で我が家は父親のいない心細さを感じずに済みました。
男手が足りなくなっていたので、父は警防団に所属しました。
町の消防や防災、防空などが主な仕事です。
小学校しか出ていなかった父は「気をつけ」「休め」「まわれ右」など基本的な動作すら習ったことがなかったため、姉が先生となって父に教えていました。
高等女学校に通っていた姉は、なぎなたを始めとする軍事教練を受けていたからです。
毎月楽しみにしていた八幡さまの縁日は、心から楽しめるものではなくなっていきました。
白いかっぽう着姿の婦人会のおばさんたちが、怖い顔をしてあちこちに立って見張っているのですから、無駄遣いなどできやしません。
でも私はまだほんの子どもでした。
たまにはお友だちとはしゃいで遊びたかったのです。
そんなささやかな楽しみもだんだんと許されなくなっていきました。
戦前は映画の始まる前には舞台で軽音楽の演奏があり、それも楽しみのひとつでしたが、いつの間にかなくなっていました。
映画館や劇場には必ず軍人がいて、少しでも時局にそぐわない場面があると、
「中止!中止!」
と大声で叫び出すので、途端に上映は中止になってしまいます。
「壁に耳あり障子に目あり」という言葉の通りで、当時は時局におもねることしか話せない風潮でした。
憲兵がいたからでしょうか。
新聞も放送もすべてがそう。
少しでも違うと「非国民」呼ばわりされてしまいます。
隣組などは助け合いのためだけではなく、お互いに監視する目的もあったのではないかと思います。
そんな中、ミルクホールはまだ営業していました。
父と銭湯へ出かけた帰りには、ミルクホールに立ち寄って(母と一緒の時は寄り道などできないのです)牛乳を飲んだり、シベリアを食べたりするのが、残された数少ない楽しみのひとつでしたが、それも長くは続きませんでした。
こうして町の光は、ひとつまたひとつと消えていきました。
さらに夜間の空襲に備え、灯火管制がしかれるようになります。
室内の電灯には黒い布をかけ、外に光が漏れないようにするのです。
夜は本当の真っ暗闇になりました。
(4 )へつづく