とことこ自伝(14)父の夢そして私の夢

昭和23年の秋になると、母と弟が茨城の疎開先を引き払って新しい家にやってきました。

ようやく親子5人、みんな揃って暮らせると喜んだのも束の間、今度は父が病に倒れてしまいます。

戦後の混乱が収まらない中、満足な医療体制も整っていません。

懸命な看病の甲斐もなく、父の病状は次第に悪化していきました。

とうとうある日、女学校にいた私の元に父危篤の知らせが入ります。

急いで弟を迎えに小学校へ。

受付で事情を伝え、ひとり昇降口で弟を待ちました。

弟が連れられてくるまでの数分がとても長く感じられたのを覚えています。

あの時のコンクリートの冷え冷えとした寒さが今も身にこびりついています。

家族全員に見守られる中、父は静かに息を引き取りました。

戦中、戦後、父は一家の大黒柱として働き通しでした。

満足に食べることもできず、家族のために休む暇もありませんでした。

決して丈夫な身体ではなかったのに。

父が亡くなったのは私が女学校の1年生の冬、奇しくも父が自身の父親を失ったのと同じ、17歳の時でした。

父の死と一緒に、私の大学進学の夢もはかなく消えました。

追い打ちをかけるように、親戚の叔母には

「すぐ高校を止めて働きに出なさい」

と厳しく諭されました。

叔母の言葉をはねつけたのは母でした。

気丈な母は、女学校を卒業した姉と同じように、どんなことがあっても妹の私のことも必ず卒業させると固く心に決めていたようです。

幸い父の残したツテを通して箒を仕入れることができるようになったので、それを店で売って、なんとか生活のメドが立つようになりました。

その頃店先で母がハタキを作っていたら、進駐軍の人が物珍しそうに眺めて写真に収めて行ったことがありました。

数日してその人は現像した写真を母に持ってきてくれたそうです。

姉が仕事をしていたとはいえ、まだお金のかかる子ども2人を抱えていたのですから、頼りにしていた父無きあと、母は必死だったと思います。

不安も大きかったはずです。

それでも笑顔を忘れず、懸命に働いて、私を卒業させてくれた母には今も心から感謝しています。

 

父には昔から夢がありました。

姉は美人だから21歳で嫁に出す。

妹の私は顔がいまいちなので、日本女子大に入れて教師にする。

弟は三中(現都立両国高校)に入れる。

身の丈に合ったささやかな夢でしたが、結局そのどれも叶うことはありませんでした。

 

戦争によって、いったいどれだけ多くの人の人生が狂ってしまったことでしょう。

戦争がなければ、父だってもう少し長生きしてくれたはずです。

 

戦時中は徹頭徹尾、軍国主義を刷り込まれていました。

敵を倒して、自分も死ぬ。

お国のためならおのれの命さえ捧げる。

最後には神風が吹いて日本が大勝利を収める…

子どもだった私は、その全てを何の疑いもなく、信じ込んでいました。

どうして大人たちは本当のことを言ってくれなかったのでしょう…

 

その後私は高校を無事卒業し、就職。

勉強嫌いの弟もなんとか都立高校に入り、日本は戦後の混乱から一転、朝鮮戦争の特需の波に乗って好景気がやってきます。

我が家もようやく落ち着いた生活を送れるようになりました。

父と、母と、あの頃の私たち家族を支えてくれた多くの方々に、今も感謝の気持ちでいっぱいです。

長々と駄文にお付き合い下さいましてありがとうございました。

ひとまずここで筆を置きます。

また続きを書き溜めて第二部を再開したいと思っております。

                     『とことこ自伝』第一部 完