とことこ自伝(10)日本の敗戦

女学校が夏休みに入ったので、小諸の林間寮舎を離れ、姉とふたり汽車に乗って、家族が暮らす茨城県へと向かいました。

それが8月15日でした。

途中横川駅で汽車が突然停まってしまいます。

何事かと思っていると、ただならぬ雰囲気の中、軍服姿の将校たちが大きな靴音を立ててドヤドヤと乗りこんできました。

その人たちが声高に話している内容から、日本が戦争に敗けたことを初めて知りました。

夕刊を手にしている人もいて、私たちも夢中で読みました。

上野駅に着くと、誰もが手に手に同じビラを持って、ここでも大変な騒ぎです。

読んでみると、新型爆弾が落ちたという衝撃的な内容でした。

新型爆弾を落とされ、敗戦し、これからいったいどうなるのか。

皇居前に駆け付けひれ伏す人々 
『オールカラーでわかりやすい!太平洋戦争』西東社 

とにかく家族の待つ家に急ぎ向かうしかありません。

大混乱が収まらない中、何とか目的の汽車に乗り継ぎ、ようやく駅についた時にはすっかり日が暮れていました。

夜の山越えは危険だと判断し、山のふもとにある母の友人宅を訪ねることにしました。

暗い田舎道を姉とふたりでとぼとぼ歩いていると、後ろから男の人が血相を変えてやってきて言いました。

「すぐにアメリカ兵が来るぞ。君たち女性は丸坊主にして顔にスミを塗り、山へ逃げなさい。」

それを聞いていっぺんに恐ろしくなりました。

姉とふたりぶるぶる震えながら、どこをどうやって歩いたのか全く覚えがないまま、母の友人宅へとひたすら急ぎました。

昔からの母の友人とはいえ、私たちとは面識もない方、おまけに夜中の突然の訪問です。

断られても仕方がないと思いながら、必死で母の名前を告げ、

「汽車が遅れてこんな遅い時間になってしまいました。土間の隅でも構わないので、どうか泊めてください」

と懇願しました。

突然のことでびっくりされたはずですが、その方は快く家に招き入れてくださり、晩ご飯にお風呂まで用意してくれました。

翌朝は、家族の方が父の職場近くまで出かける用事があったので、わざわざ父のところへ寄って、私たちが来ていることを伝言してくれました。

朝ご飯をご馳走になってから母の友人宅をおいとまし、山道に差し掛かったところで、向うからやってくる父の姿が見えました。

父の顔を見たとたん、心底ホッとしたのを覚えています。

父に連れられて、無事家族の待つ疎開先にたどり着くことができました。

 

とことこ自伝 (9)家族4人で納屋住まい

焼け跡を行く『アジア・太平洋戦争』森武麿監修 ポプラ社

家を焼け出された私たち家族は、母の実家のある茨城県にやってきました。

田んぼの広がるのどかな風景を目にした瞬間、焼け跡の殺伐とした風景とのあまりの落差に、思わず涙がこぼれました。

ここには普通の暮らしがある…としみじみ思わずにはいられませんでした。

母の両親の口利きで「いずみや」という家の納屋を借りることができました。

納屋は小さな物入れも付いていて、10帖ほどありました。

父が床板を敷いて、その上にワラを敷き、毛布を被せて座敷にしつらえてくれたので、そこで寝起きできるようになりました。

ガスなどありませんから、板の間に小さな囲炉裏をこしらえ、畳1帖分の土間にはへっつい(昔のかまど)を置き、煮炊きができるようにしました。 

電気はもちろんありませんから、夜は真っ暗、寝るよりほかにすることがありません。

水道もないので、洗い物をする時は下の川まで行き、飲み水は近くの井戸へ貰いに行きます。

弟はまだ小学2年生でしたから、水汲みは私の仕事でした。

両手にバケツを下げて、1日に2往復はしました。

姉は女学校を卒業するまで、東京の親戚の家に下宿することになりました。

トイレは家の前の道にある農作業用のトイレを借してもらっていました。

穴ぼこがぽっかり空いているだけの簡素な作りなので、気をつけないと落ちてしまいそうで、特に夜は怖くてたまりませんでした。

父は納屋の隣に小さな小屋を作り、そこを仕事場にして、あちこちから材料を調達しては、細々と箒やハタキを作って売っていました。

じきに父は仕事仲間のところへ出稼ぎに行くようになりました。

 

納屋とその周辺

 

空襲のために、私は卒業式もないまま小学校を卒業しました。

願書を出していた女学校は空襲で校舎が焼け落ちてしまったため、入学試験はできなくなり、願書を出した全員が合格となりました。

とはいえ、授業をしようにも肝心の校舎がありません。

5月になって、ようやく女学校が所有する小諸の林間寮舎で授業が再開されることが決まりました。

4年生(当時の女学校は5年制でした)の姉と一緒に私は小諸へ向かい、寮生活を始めます。

ここでも食糧事情は似たり寄ったりのひどさで、ひもじい思いをしながらの勉強でした。

 

                           (10)へつづく

とことこ自伝 (8) 焼け出されて

やがて空が白みはじめ、ようやく夜が明けました。

辺り一面、焼け野原です。

空襲直後の浅草 『母と子でみる東京大空襲』 早乙女勝元編 草土文化

昨日まで当たり前のようにそこにあった街並みは、一晩で跡形もなく消え失せていました。

焼け跡からは絶え間なく煙や炎が上がり、さえぎるものが何もなくなって、遠く日本橋の方まですっかり見渡せてしまいます。

あまりの光景に呆然としていると、どこへ逃げていたのか、父も無事に姿を現しました。

この空襲で10万人以上が犠牲になったと言われています。

家族全員が無事であったことは奇跡としか思えません。

 

自宅は全焼でした。

家の前に、宝物のように大切にしていた中原淳一の絵皿のかけらが散らばっていました。

アルバムも教科書も、みんな灰になってしまいました。

言葉もなく、悲しくて悲しくて、ただただ涙が止まりません。

姉は通っていた女学校の様子が気になって出かけていきましたが、しばらくすると戻ってきました。

途中の道は死体だらけで、とてもたどり着けなかったそうです。

あとになって旧第一東京市立高等女学校(現深川高校)が焼失したことを知りました。

昭和2年に東京市が市の威信をかけて建てた東洋一を誇る女学校だったのですが。

 

店の床下に作った防空壕は無事だったので、蓄えてあったわずかばかりの食べ物をみんなで分け合って食べました。

同じように焼け出された人たちと一緒に、私たち家族も町内会の防空壕で暮らすことになりました。

となり組で作った防空壕 
『戦争中の暮しの記録 保存版』 暮しの手帖編集部編 暮しの手帖社

防空壕のすぐそばには公園があり、トイレも水道も揃っていたので助かりました。

その後に待っていたのは満足に食べ物がない日々です。

穀物の皮を粉末にして、スイトンのような「しょうふ」というだんごを作って食べたりしました。

気になって先日調べてみましたら「しょうふ」は「正麩」と書くようです。小麦粉から分離、沈殿させて抽出したでんぷんを乾燥させ、粉末にしたもので、本来は絵画作品の裏打ちや表装用の糊の原料として使用するのだそうです。)

そんなものすらない時は、さつまいものつるを食べて飢えをしのぎました。

公園では大勢の兵隊が、空襲で犠牲となった人たちの死体を集めて燃やしていました。

15日に天皇陛下が八幡さまを参拝するための準備だったようで、無事参拝が終わってしまうと、翌日には兵隊は1人残らず帰ってしまいました。

住む家のないまま、焦土と化した町に留まり続けるのが不安になり、母の実家のある茨城県へ家族で身を寄せることに決めました。

                           

                            (9)へつづく  

 

 

とことこ自伝(7)焼夷弾の雨 ー 私の東京大空襲

年が明けると、受験を控えた生徒を対象に口頭試問の練習が始まりました。

私は姉の通う女学校に進学を目指していましたが、先生は男性教師1人と地元の寮母さんだけですから、とても全員の勉強を見ることなどできません。

どうなることかと思いましたが、その後空襲で女学校が焼失、試験どころではなくなり、志願した全員が無試験で合格になりました

小学校の卒業式に出席するため、私たち6年生はいったん帰京することになりました。

2月26日、三条駅から汽車に乗りました。

途中でたびたび空襲があり、汽車は動いては止まり、止まってはまた少し動くという状態で、遅々として進みません。

普段なら数時間の上野駅まで、なんと丸1日かかりました。

汽車に乗る 『戦争中の暮しの記録 保存版』 暮しの手帖編集部編 暮しの手帖社

ようやくたどり着いた久しぶりの我家。

懐かしさと温かさで、心から安堵したのを覚えています。

母の作るおじやのなんと美味しいこと!

懐かしい母の味でした。

空襲に備えて、東京では夜も服のまま眠ります。

枕元には、いつでも持って逃げられるよう雑のうと運動靴を置いておきました。

雑のう 那須烏山デジタル博物館所蔵

一晩のうちに何度も空襲警報のサイレンでたたき起こされる日々を送るうち、3月9日の夜がやってきます。

真夜中に空襲警報のサイレンが鳴り響きました。

ラジオをつけると、いったん国内に入った敵機がすでに国外へ出たと報じています。

ホッとして眠りに就こうとしたのも束の間、再び大きなサイレンで飛び起きました。

私は急いで防空頭巾を被り、雑のうを背負って、ぐずぐずしている弟を起こします。

防空頭巾  滋賀県平和祈念館所蔵

まだ9歳の弟の手を引いて、母に指示された通り、町内会で作った防空壕へ向かいます。

母と姉は少し遅れて、布団を担いでやってきました。

父だけは頑として寝床から出ようとしません。

毎晩続く空襲にほとほとうんざりしていたのです。

防空壕の中 『東京大空襲を忘れない』 瀧井宏臣著 講談社

すし詰めの薄暗い防空壕の中、誰ともなく「かんのんりきだんだんめえ」と唱え出しました。

当時小学生だった私には意味が分かりませんでしたが、唱えていると災難から逃れられると言うので、私も弟も見よう見まね、無我夢中で唱えました。

になって調べてみたところ、念彼観音力刀尋段段壊(ねんぴかんのんりきとうじんだんだんえ)のことのようです。観音菩薩の力を祈念すると、法敵の切りかかった刀はばらばらに砕けて、身は安全であるという意味らしいです

外から響いてくるゴウゴウという不気味な爆音が次第に激しくなり、思わず身をすくめた時、

「(防空壕の)入口が潰れるぞ!外へ逃げろ!」

と、誰かが叫びました。

みんな一斉に外へ飛び出します。

私は弟の手を引いて、すぐそばの大きな公園へ走りました。

公園の見上げるほど大きな立木が、どれもこれも煙を巻き上げながら、赤黒くメラメラと燃えています。

遠い空からは、焼夷弾雨あられのように降り注いでいます。

焼夷弾による攻撃 『アジア・太平洋戦争』 森武麿監修 ポプラ社

地獄絵のようなありさまを目の前にすると、恐怖も何も感じている暇などないのです。

私は弟の手をきつく握り締め、どこへ逃げたらよいのか分からないまま、ただひたすら闇雲に駆けずり回っていました。

ふと大勢の人がお寺の塀にぴったりしがみつくように、一列に屈んでいるのが見えました。

私も急いで弟と一緒に塀にはりつきました。

その時、ドーンという強い衝撃に襲われました。

あっという間に私は吹き飛ばされてしまいました。

意識が戻ると、母が私を抱き起こしています。

履いていた運動靴は両足とも脱げ、背負っていたはずの雑のうもどこかへ吹き飛ばされています。

私のすぐ後ろにいた女の人に焼夷弾が直撃したのでした。

私が着ていたオーバーの背中には、彼女のものと思われる血糊がべっとりとついています。

運が良かったとしたか思えませんが、吹き飛ばされた私にも、弟にも大した怪我はありませんでした。

じっと塀にへばりついたまま、家族で夜が明けるのを待ちました。

我が家と逃げ込んだ公園周辺図

 

                               (8)へつづく

 

 

とことこ自伝 (6)学童疎開

1944年の夏、小学3年生以上の児童は集団疎開することになりました。

本土空襲の恐れが出てきたからです。

親類などを頼る縁故疎開と、学童疎開とに分かれて親元を離れることになりました。

学童疎開 『語り伝えるアジア・太平洋戦争 第4巻』吉田裕 文・監修 新日本出版社

町内会で学童疎開するのは4年生の男子と6年生の私だけ。

町内の人が集まって、料理屋でお別れ会を開いてくれました。

普段食べたことのないような大層なご馳走が並んでいて驚きました。

みんなに囲まれ、口々に「頑張れ、頑張れ」と励まされて、なんだかとても気恥ずかしかったのを覚えています。

疎開する直前に、近所に住んでいた一番の仲良しの友人と写真屋へ行きました。

彼女は疎開せず、東京の母方の家に引き取られることになっていたので、お別れの前に、一緒に記念写真を撮っておきたかったのです。

まかさこれが彼女と会う最期になるとは、その時は思いもしませんでした。

Tちゃんと写真屋さんで

8月のひどく暑い日でした。

家族と別れ、悲壮な気持ちで学童疎開先の新潟へ向かう列車に乗り込みました。

小学校の役員もしていた父が付き添っていてくれたのが唯一の心の支えでした。

学童疎開先の宿舎は極楽寺という地元のお寺です。

そこに寝泊まりして、いくつかある地元の小学校に分かれて通いました。

小学校の名前は忘れてしまいましたが、校歌の一部を少し覚えています。

 

いやさか守門の御空を支え 

大河信濃の地を行くところ

商工栄ゆる我三条の自立の民とし

いざいざ生きん

あおげあおげ教えの光

 

三条市の冬は想像以上に厳しいものでした。

みぞれが降り始めると、もう外は凍えるような寒さです。

おまけに道はぐしゃぐしゃにぬかるんでしまい、とても歩けたものではありません。

小学校に通うのもままならず、冬の間は寮で勉強するしかありませんでした。

歩いて5分もかからない風呂屋に行くと、帰るまでに手拭いがコチコチに凍りついてしまいます。

こんこんと降りしきる雪は、どんどん積もって2階の窓の高さに届くほどです。

道の両側には、子供の背丈よりもずっと高く雪が積み上げられ、固めてあります。

何もかも初めての体験でした。

そんな寒さの中でも男子たちは元気です。

縦に割った太い竹に鼻緒を括りつけて作った竹下駄を両足に履き、硬く凍った雪の上をスキーのように滑って遊んでいました。

竹下駄 金沢くらしの博物館所蔵

 疎開先でも食糧事情は次第に厳しいものになっていきます。

先生と私たち6年生とでリヤカーを引いて遠方へ買い出しに行く事もしばしばでした。

極寒の雪の中をコートもなく、運動靴にモンペ、あとは手袋だけです。

寒さに凍えながら、足を引きずるようにして重いリヤカーを必死で引きました。

途中で何度もこのままここで凍え死ぬんだと本気で思ったほどです。

 

晦日になると、お寺ではご馳走を食べる習慣があるようで、厨房の方からよい匂いが漂ってきます。

その匂いを嗅ぎながら、私たち学童疎開の子どもは米粒がまばらに浮くだけの雑炊を啜っていました。

ひもじさが募り、悲しくてたまらなかったのを覚えています。

食事風景
『語り伝えるアジア・太平洋戦争 第4巻』 吉田裕文・監修 新日本出版社

楽しみだったのは面会です。

父が面会に来る時には外出許可をもらい、隣の駅のお料理屋さんへ連れて行ってもらいました。

目の前に並べられたのは戦前と変わらないようなごちそうです。

まるで夢を見ているようでした。

軍需景気などで、戦時中も一部の人たちは裕福に暮らしていたようです。

お店は軍人さんで賑わっていました。

 

                             (7)へつづく

  

とことこ自伝 (5)戦時中 2

なぎなたの稽古 
東京大空襲を忘れない』瀧井宏臣著 講談社

小学校では兵隊さんへの慰問袋を作るくらいでしたが、姉が通っていた高等女学校では体育の時間になぎなたの稽古をするなど軍事教練が盛んになっていきます。

手先の器用な姉はゲートルの巻き方がすっかり上達して、父に教えてあげたりしていました。

セーラー服がなくなって、制服は全国統一のへちま衿に変わります。

女性はもんぺ姿が普通で、袖の長い着物を着ていたりすると、たちまち婦人会の人に袖を切るよう注意されてしまいます。

もんぺ 滋賀県平和祈念館所蔵

男性は国民服、脚にはゲートルを巻きます。

国民服 みたかデジタル平和資料館所蔵

ゲートルは脛のあたりをズボンの上から布で巻いて、補強するものです。

ゲートル 水巻町歴史資料館所蔵

ガソリンが不足し、木炭や松根油という松の根から採った燃料を使用したりしました。

車体後部に木炭を燃やす窯を積んだ木炭バス
『写真が語る銃後の暮らし』 太平洋戦争研究会 筑摩書房

軍備増強のための金属が慢性的に不足していたので、お寺の鐘や家庭の鉄瓶までも、供出しなければなりません。

家庭や寺などから集められた山積みの鋼鉄類
『写真が語る銃後の暮らし』 太平洋戦争研究会 筑摩書房

米や野菜、魚など主な食料品や日用品は配給制となり、決められた量しか買うことができなくなります。

下戸だった父は近所の人と相談して、配給された酒を砂糖と交換したりしていました。

米配給所 『写真記録昭和の歴史第2巻』 小学館

服も自由に購入できなくなります。

衣料切符と呼ばれる回数券のような紙が1人に1枚ずつ配られます。

紙には点数が印刷されていて、衣料品ごとに点数が決められていました。

その分を切り取って代金と一緒に渡す仕組みでした。

赤ちゃん用品や結婚式用品などには特例があったかもしれません。

衣料切符 札幌市平和バーチャル資料館所蔵

本物の絹は正絹(しょうけん)、混じり物は人絹(じんけん=人造絹糸)と呼び区別していましたが、戦争の終わり頃には人絹すら手に入りにくくなっていきました。

代わりにスフという化繊のはしりのような布が出回るようになりました。

水に弱く、ペラペラで肌触りが冷たい布でした。

千人針を縫う 『写真記録 昭和の記録 第2巻』小学館

町角には千人針を持って立つ人が増えていきます。

「武運長久」と印刷された手拭いに赤い点が千個書いてあり、道行く人に呼びかけてはその点に玉結びを作って貰うのですが、1人につき1つしか作れないきまりです。

文字通り千人の協力が必要という、気の遠くなるような作業です。

ただし寅年の人だけは例外で、年の数だけ作ることができました。

虎は千里往って千里還る(非常に勢いがあり盛んなさま)という故事にあやかっていたようです。

死線(四銭)を越える、苦戦(九銭)を免れるということから、五銭、十銭の穴のある硬貨を縫い込んだりもしました。

硬貨を縫い込んだ千人針 みたかデジタル平和資料館所蔵

出来上がった千人針を兵士が体にまくと銃弾が当たらないと信じられ、武運と無事を願って、出征してくいく家族に持たせていました。

我が家でも、頼りにしていた職人さんたちが次々と召集され、最後に残った職人さんが出征していった頃には戦況は次第に思わしくなくなっていきました。

 

                               (6)へつづく

お誕生会

家族でお誕生日会をしました。

 

行きのタクシーの運転手さんは女性の方で、以前は病院にお勤めしてらしたそうです。

よくよくお聞きしたら、お母様は私と同じ、92歳。

残念なことに今年の春亡くなられたそうです。

戦時中は韓国にいらしたそうで、終戦後、大変な思いをして引き上げてきたのだそうです。

お会いしてお話をお聞きしてみたかったです。

ホテルの中華料理屋さん

今日行った中華料理屋さんは高層階にあって見晴らしが良く、

天上にいるような心地でした。

焼きそばとチャーハン

青菜炒めや焼豚、チャーハン、五目焼きそば、春巻きなどたくさん食べました。

 

そのあとデパートでお洋服やバッグを買ったのでくたびれました。

暑い日が続いていますのでみなさんもお体にお気を付けください。